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いまから40年前の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。当時、私は広島女学院に通う13歳の生徒でした。この一発の爆弾でおよそ14万の人々が命を失いました。私は生き残った者のひとりです。その後の人生の大半を、あのとき目の当たりにした恐怖と被害を二度とくり返させないために生きてきました。廃墟から這い出てきた私たちは、いま世界を脅かしている核の破局を垣間見ました。私のことをお話しするのは同情を得るためではありません。警告なのです。
被爆以前の私の生活は、日本の若い女の子としては例外的なものでした。家族は武士階級の家系でした。侍といっても、封建的な特権はずっと以前になくなっていたのですが、それでも武士の家系にははっきりとした社会的な格式が残っていました。私たちの住む広島の大きな家の門には、武士の家系であることを示す家紋が刻まれていました。
西洋の知識という点でも私たちは例外でした。戦前、私の父はドイツ人のパートナーと「西部フルーツ会社」を起こし、カリフォルニアで果実の商売を営んでいました。6人の兄弟姉妹のうち何人かはそこで生まれました。家族は、ゴルフとかスキーとか、西洋の中流の人たちが楽しむ娯楽にも親しんでいました。ほとんどの日本人にとって、習いたいとは思っていたかも知れませんが、何の知識ももっていないような活動でした。
私は、1932年1月3日、中村節子として広島に生まれました。兄弟姉妹のほとんどはすでに成人年齢に達していました。だから私は大人の世界で一人っ子のようにおませで、甘やかされて育ったわけです。たくさんの楽しい時間がありました。けれど戦争はいつも影を落としていました。ラジオで日米開戦の報道を聞いたことも覚えています。9歳のときでした。勇ましい軍歌に続いて、陸や海戦での勝利が伝えられました。しかし太平洋戦争のなかで年とともに音楽は暗いものへと変わっていきました。大きな敗北の報道が続くようになり、天皇陛下への忠誠が強調されました。状況は悪化の一途をたどりました。なにもかも配給に変わりました。着るものも、とりわけ食べるものも。ごはんに押し麦や、さらには食べられるものなら何でも混ぜるようになりました。砂糖はほとんど手に入らなくなりました。
終戦間際のある日のことです。二階に行くと父がテーブルの前に座って、なにか外国の本を読んでいました。「それなに?」と聴くと、「英語の文法の本だよ」とのこと。驚きました。父は、「やがてこれが必要となる」と言いました。当時は、まだそれがどういうことなのかよくわかりませんでした。いまから思えば、父は日本の敗戦が近づいていたことを知っていたのです。米国に住んだことがあり、アメリカのすごい力をよく知っていたのですから。
その年の春から夏にかけて、米軍はサイパン、テニアン、硫黄島の空港を相次いで落とし、日本の都市を攻撃できるようになりました。広島を爆撃する前、米軍は東京はじめ、大きな都市を次々と爆撃しました。広島が攻撃されるのも時間の問題でした。37万人の人口と優れた港をもち、そこから軍人を船で太平洋の戦場に送り出していた広島は、主要な攻撃目標だったのです。
私たちも、備えを固めようとしました。市全体が班に分けられ、それぞれが民間防衛体制の責任者である班長の下に置かれました。女性のスカートやハイヒールは禁止です。実際、非常時に自由に動けるように、もんぺとよばれる機能的なだぶだぶのズボンをはいたわけです。外出するときは救急セットが入った布のバッグと炒った豆の袋とを持ち歩きました。もし取り残されても飢えることがないようにです。夜は敵機が家を標的にするのを防ぐため、窓という窓に覆いをつけました。毎晩、空襲警報で眠りを中断されました。いつでも防空壕に逃げ込めるよう、寝るときも服は着たままでした。
ふだんの授業は停止され、生徒たちには動員がかかりました。原爆が爆発したとき、7年生、8年生(訳注: 日本の新制中学1,2年生に相当)の生徒のほとんどにあたる6000人以上の生徒が市の中心付近で、建物疎開にあたっていました。爆撃の後、火災が広がるのを防ぐため防火帯をつくる作業です。そのためには家々を引き倒さなければなりません。志願していた大人に助けられながら、生徒たちは木材や瓦の片付けにあたったわけです。
私自身は、建物疎開の作業はしませんでした。同じ学校から行った30人くらいの女子生徒と、前線から届いたメッセージの暗号を解読する特別の訓練を受けていたのです。すばやく足し算、引き算をし、暗号表と照らし合わせなければならない複雑な作業です。成績が上位の生徒だけがこの仕事に選びだされました。そんな重大な情報に13歳の女子生徒をあたらせるくらいですから、日本がどれほど絶望的な状態にあったかがよくわかります。アメリカはずっと前から日本の暗号を解読していたのですが、私たちはもちろんそんなことは知りませんでした。
夏が盛りになっても、懸念された広島の空襲はありませんでした。人々は次第に、アメリカは何か特別な計画をもっているのではないかと疑い、苛立ちはじめていました。
私の、正規の暗号解読助手としての第一日は、1945年8月6日月曜日、朝8時にはじまろうとしていました。市の上空で原爆が破裂した時間の正確に15分前です。前の晩、31歳の姉綾子と姉の4歳の子ども英治が田舎から広島に出てきました。医者に行ってものもらいを見てもらい、ついでに美容院でパーマをかけてもらおうと、出かけてきたのです。綾子の夫は戦地に出ており、彼女は、子どもを空襲から守るため広島を出て、田舎に疎開していました。
その晩はいつものように空襲警報が鳴り、よく眠れませんでした。しかし翌朝は警報解除が鳴り、人々はいつもの仕事を始めようとしていました。美しい夏の日で、青空がいっぱいに広がっていました。6時30分に布団から出て朝食をとりました。綾子と英治は医者と美容院へと出かけました。7時45分頃、私も家を出て、同じ班の生徒たちと待ち合わせていた駅へと歩きました。私が班長でした。隊列を組み、「速足進め!」の私の号令で、市の中心から1.8キロメートルのところにある第二総軍司令部へとむかいました。揃って入り口の歩哨に敬礼した隊員たちを、暗号作戦の責任者であった柳井少佐が待っていました。少佐は、二階の大きな部屋に集まった私たちを前に演説し、元気で、天皇陛下のために一生懸命に働くよう話しました。ちょうど、私らが「わかりました。最善を尽くします」と言ったときでした。窓全体が青白い閃光でいっぱいになったのです。
爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音がはっきりと聞こえたそうです。しかし私は、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったのです。それを見た瞬間、机の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。建物とともに、私の身体は落ちていったのです。
気がつくと、辺りは静かで真っ暗でした。瓦礫の下敷きになっていました。爆弾が頭上に落ちたのだと思いました。市民の誰もがそういう感じを持ったようです。
瓦礫の中に横になり、動くこともできず、このまま死ぬのだなと思いました。不思議なことに怯えはありませんでした。しばらくして、級友の声が聞こえてきました。弱々しい声で神様を呼んでいました。「神様、たすけて!」「おかあさん、たすけて!」 そのとき、だれかの手が私の左の肩に触れました。私の近くに埋まっているだれかでした。それから、その手が私の周りの瓦礫を押し除け始めました。真っ暗な中で男性の声がしました。「いいか、あきらめるな。動け、前へ動き続けろ。いま助けるから。見えるか? 陽の光が差しているだろう」。左側に光がちらちらと差し込んでいました。その人は、「すすむんだ。あの隙間から這い出るんだ!」と言います。私には彼が見えませんでしたが、こうして二人で闇の中から這い出したのです。そのとき、火はすでにその瓦礫となった建物にもまわりはじめていました。
私が着ていた服はぼろぼろになり、血に染まっていました。体中、切り傷や擦り傷だらけでしたが、手足を失うことはありませんでした。周りを見ると、朝だったのに空は暗く、まるで夕暮れのようでした。そのとき、市の中心の方から、人々が足を引きずりながら歩いてくるのが見えました。体の一部を失った人、目が溶け出してしまった人、黒ずんだ皮膚、骨からはがれ、紐のように垂れ下がった肉片、あたりを満たすひどい臭い、焼けた人の身体の悪臭。それは説明しようのない臭いでした。あえて言えば、魚を焼いたような臭いです。
一番不思議だったのは、あのときの静けさです。それは、私が感じたもっとも忘れることのできない記憶のひとつです。みなさんは、人々がパニックに襲われ、走り、叫びまわると思うかもしれません。ですが広島では、そうではなかったのです。無声映画の絵姿のようにゆっくりと動き、埃と煙の中を足を引き摺りながら歩いていたのです。何千人もの人が、「水、水をください」といってあえいでいました。多くの人がそうして崩れ落ち、死んでいったのです。
這い出すことができた2、3人の級友と一緒に、幽霊のような人の列に加わりました。1マイル(約1.6キロメートル)くらい歩いたでしょうか。非常の場合はそこへ逃げろといわれていた丘の斜面の方向です。丘の上から広島を見渡しました。何もかもが炎に包まれ、黒い煙と埃が空を覆い、ますます暗くなっていました。
丘のふもとには練兵場がありました。地面はすべて死体と瀕死の人々でいっぱいでした。何万もの人が呻き、水を求めていました。歩ける人は近づいて助けようとしました。だれもが水を欲しがっていました。熱と脱水症状による最悪の苦しみにあえいでいたのです。けれど、コップもなければ水を運ぶ水筒もありません。近くの小川に行き、ブラウスを脱いで水につけました。そうして急いで戻り、ぬれた布を死んでいく人たちの口にあてがったのです。人々は必死になって湿りを吸いました。それが、私たちができた精一杯のことでした。
一日中、その仕事に追われました。夜が来て、私たちは丘に腰を下ろし、火が市全体をなめ尽くしているのを茫然と眺めていました。朝には、広島はまったいらになっていました。ふつうならずっと遠くに見えていたはずの市の背後の山が、すぐ近くに見えていました。私たちを襲ったものが通常爆弾以外のなにかであったことはあきらかでした。まるで突然、青空から地獄が降ってきたようでした。
被爆者が「原爆」という言葉を聞いたのはずっと後になってのことです。けれど、私はその言葉を、その日のうちに、丘の中腹に腰を下ろし市が焼けるのを見ているときに耳にしたのです。暗号解読本部で私たちの上司だった柳井少佐が傍らに立っていました。眼下に広がる破壊の跡を見下ろしながら彼は、「これは、アメリカが開発してきた新型爆弾に違いない。原子爆弾だ」といったのです。暗号解読の専門家として、彼は秘密情報を知っていました。彼の言葉は、もちろん、当時の私には何のことかわかりませんでした。10日ほどして、「広島は新型爆弾によって壊滅した」と書かれたポスターが電柱に張り出されはじめました。それには、初歩的な科学の解説が書かれていました。使われていた日本語は「高度曳光性新型爆弾」という言葉でした。
原爆が落ちたとき、父は瀬戸内海で、好きだった釣りをしていました。広島から10キロメートルほどのところで、ボートの上からきのこ雲が市の上空に立ち上るのを見たといいます。すぐに岸にとって返し、急いで市内に歩いて戻りました。母は、爆発のとき、朝食の食器を片付けていました。つぶれた家の下敷きになりましたが、火がまわる前にのがれることができました。
家族の間では、もし何か起こったら、親戚が住む広島郊外の府中に逃げることになっていました。母はただちにそこに向かいましたが、父は別の郊外にある親戚の別荘に行きました。綾子と英治が生き延びたと聞き、そこへ行ったのです。両親がどうやってふたたび落ち合ったのか判りません。たぶん翌朝、別荘で落ち合ったのでしょう。同じ朝、父は私を探しに出ました。私が働いていた陸軍本部の人たちが丘に逃げたと聞いていたのです。兵隊さんが、「中村節子!」と、私の名前をよぶので、「はい、ここです」と答えました。そこに父が居たのです。父はひとこと「よかった!」といいました。「ありがたい、おまえは生きていた!」という意味です。その後しばらく、言うべき言葉もありませんでした。
父と私は、母、綾子、英治と別荘で一緒になりました。姉と英治は生きてはいましたがひどい状態でした。
爆発のとき、ふたりは医師のところへ行こうと橋をわたっていました。爆心では摂氏6000度にものぼった、焼き尽くすような熱線を遮蔽するものは何もありませんでした。多くの人々がただただ、蒸発したといいます。姉と子どもは爆心地よりは離れていましたが、ひどいやけどを負いました。綾子はどうにか、息子を背負って、崩れ落ちた私たちの家までたどり着きました。隣の人は、姉が廃墟を掘り起こしているのを見たといいます。そこから彼女は食用油を掘り出していました。やけどに塗って和らげようとしたのでしょう。姉は隣の人に、親戚の別荘へ連れて行ってくれるよう、助けを求めました。隣の人は、瀕死の英治を運び、姉は腕に食用油を抱え、這うようにして来たのです。翌朝会ったとき、二人の身体は二倍もの大きさに腫れ上がっていました。皮膚は溶け、破れた火ぶくれの体液に覆われていました。
10日ほどその家にいる間、姉と彼女の子どもは薬もないまま、じわじわと死にむかって苦しみがつづいていました。なにも食べられず、小さな子どもが「おばあちゃん、英治にぶーぶーをちょうだい」というのです。「ぶーぶー」というのは水のことです。でも、私たちは二人に水をあげることができませんでした。兵隊さんから「水をやると、死を早める」と言われていたからです。
敵機はなお、広島上空を飛び、破壊の様子を調べていました。飛行機が来るたびに防空壕に逃げ込まなければなりませんでした。私は容易に駆け込めたのですが、綾子と英治には、何をしてやることができたでしょう。二人はもはや歩くこともできず、触るだけで肉が剥げ落ちるのです。父は部屋で寝ている姉を残して防空壕に行くことができず、彼女も運ぼうとしました。姉は痛みで悲鳴をあげました。恐ろしい声でしたが、それでも父の心は姉をそこに残すことを許さなかったのです。
10日後、綾子と英治は息を引き取りました。二人の焼けて膨れた体が溝の中で無造作に焼かれるのを見つめました。兵隊さんが二人にガソリンをかけ、マッチで火をつけ、焼いていきました。よく焼けるように、竹の棒で遺体をひっくり返さなければなりませんでした。彼らは作業しながら、「腹はまだ半分しか焼けてないぞ」とか「脳みそがよく焼けてないぞ」などといっていました。泣くこともできませんでした。この記憶はその後もずっと、私を苦しめ続けました。同じような経験は他の被爆者のみなさんからも報告されています。級友のひとりは、家があったところに戻ったら、家族すべての焼かれた死体があった。あまりのことに泣くこともできなかったといっていました。
ずっとあとになって、原爆の心理学的影響について研究をはじめ、私たちが感じた感情の麻痺についてわかるようになりました。アメリカの精神科医ロバート・ジェイ・リフトンが書いた広島の被爆者についての本「生のなかの死」(Death in Life 岩波の訳は「広島を生き抜く」)によって、私は、彼のいう「精神の閉鎖」について学びました。過度におぞましい刺激が意識に入り込むのを防ぐための心の麻痺についてです。私のなじんだ家庭、友だち、学校、町そのものなど、すべてが一瞬にして消え去った悪夢の世界でなお、私が行動することを可能にしたもの、それがこの心の麻痺であったと信じています。
8月15日、被爆から9日後、兵隊さんたちが、正午にラジオで重大放送があるとメガフォンで伝えてまわりました。私たちは、特別放送があるから近くの丘の中腹まで来るようにいわれました。父と私が行きました。木の枝にかけられた拡声器から天皇の声が流れてきました。音質はひどく聞き取りにくく、おまけに私たちは天皇の公式の宮廷用語に慣れていませんでした。けれど彼が、降伏を決定したことについて伝えていることは判りました。彼は、広島と長崎(広島から3日後に爆撃された)の破壊についても述べました。これら二つの都市の運命が降伏の決定に関わっていると言っているようでした。天皇は、臣下が「耐えがたきを耐え」るように言って、演説を終えました。数人の兵隊が泣き出しましたが、ほとんどの人はただ、呆然として立ち尽くしていました。
敗戦の翌日、私たちは郊外にある伯父の家に移りました。伯父の妻と二人の娘は広島から戻りませんでした。幸いなことに伯父のところには私たちの分の食糧や衣類があり、彼が所有する小作人のための家に住まわせてくれたのです。生き残ることだけが問題でした。
当時の私たちがおこなった一番の仕事のひとつは、義理の姉を探すことでした。彼女は被爆のとき市の中心に居ました。数日間、私たちは瓦礫を調べ、焼けた死体を裏返し、彼女の持ち物はないかと懸命に探しました。家があったところにも行きましたが、灰と砕けた瓦以外、何もありませんでした。湯のみとご飯茶碗が溶けて、ひとつにくっついていましたが、鋳物の鉄枠がついた飾り時計を拾い出すことができました。(それは今でも私がもっています)。9月もずっと探しましたが、彼女を見つけることはついにできませんでした。
去年の夏、彼女の息子と話をしました。彼は、被爆のとき市の外にある家に居ました。いまは広島工業大学で電子工学の教授をしています。母親が帰らなかったことについてどう感じているか尋ねたのにたいして彼は、そのことと向かい合えるまで本当に長いときがかかったといっていました。被爆当時、彼はちょうど5歳でした。母親は亡くなったといわれていたのですが、それでも毎日駅に行き、母親が広島での仕事を終えて帰ってくるのを待っていた、何カ月もそうしていたとのことでした。
9月の半ば、原爆が落ちてから5週間後、台風が広島を直撃しました。家に帰りながら雨に降られ、ごみや汚物が流れている中をひざまで水に浸かって歩かなければなりませんでした。原爆にあって以後はじめて、張りつめていた心の糸が切れ、泣きじゃくりました。びしょぬれになり、疲れ果てて家に着いたとき、父に惨めな気持ちをぶつけました。父は、「お互いに命があり、ひとつ屋根の下に暮らせているのに、お前はなんの権利があって不満を言うのか!」と、私を叱り付けました。
はじめは、父の言葉に打ちのめされました。しかし、結局、父の言ったことはそのとおりでした。生活の現実と折り合いを付けていかざるを得なかったのです。私の両親は典型的な模範でした。一度も不満を漏らしたことはありませんでした。すべてを失いながら、なお打ちひしがれませんでした。たぶん、それが侍の息子や娘の矜持だったのでしょう。私にはわかりませんが、父のその言葉が私にふたたび生活をはじめ、立ち直る力を与えたのは確かです。その日は、私の感情的な麻痺に終わりを告げる日となりました。ひどい窮乏と惨めさという事実に向かい合って生き続ける決意を固めたのです。
10月頃、学校が再開しました。市内の元の校舎は灰燼となりましたが、市外の山に土地をもっていて、仮の施設をつくったのです。波型のブリキの屋根を載せた粗末な小屋でした。雨が降るたびに、先生の声が聞こえなくなるほどひどい音がしました。窓もなく、風が直接入ってくるので凍えるような寒さでした。でも、気になりませんでした。級友と一緒になれ、生活もある程度正常に復したようでうれしかったのです。
生き残ったことを喜びあったのですが、長くは続きませんでした。被爆に続いて、生き残った人たちに不思議な症状が表れてきました。他の多くの人たちと同じように、私も内出血や下痢、歯茎の出血に襲われました。脱毛もありました。私の場合はそれほどでもなかったのですが、なかには全部抜け落ちてしまった女の子もいました。そういう生徒たちは帽子をかぶって登校していました。それが、なんの外傷もない人たちまで、静かに死んでいくようになったのです。最初は、身体に細かい紫斑が表れ、生徒たちが次第に学校に来なくなりました。先生が、“今日は誰々さんはお休みです”というようになり、まもなく、その子が亡くなったと知らされます。それが紫斑と関わっていることは判っていました。毎朝、紫斑が出ているか調べました。もしあれば、死が待っていたのです。
私が大好きだったおじとおばもそうして亡くなりました。二人とも爆心から離れた、市のはずれにいたのに症状が表れました。私の両親は、二人が亡くなるまで世話をしました。母の話だと、二人の内臓や組織は、腐り、溶け、黒い水のような液体になって流れ出ていくようだったとのことでした。ふたりともオムツをつけなければなりませんでした。母はあるものなら何でも使いました。しばらくの間は、古い着物を使っていましたが、それがなくなると新聞紙を使いました。けっきょく、おばもおじも、他のたくさんの人たちと同じように亡くなりました。原爆症について知ったのは、後々のことでした。ゆっくりとした、不可解な放射線による死、それは広島に引き起こされたたくさんのおぞましい出来事のひとつでした。核兵器を認める人たちは、生きた人間に対するこの恐ろしい、野蛮な影響を考えようとしません。彼らが考えるのは戦略と統計だけです。
その後2、3カ月の間、人々は次第に市内に戻り始めました。他の人たちと同様、戦地から帰った兄も焼け跡をきれいにし、小屋を建て、妻と娘と一緒に住むようになりました。私と両親はその後も市外に住み続けました。学校は数年後、丘の上の仮設から市の中心に近い立派な建物に移りました。私は広島の高校、そして大学で勉強を続けました。
広島は見かけ上、再建されていきましたが、犠牲者の心の傷が癒えていくにはなお、多くのときが必要でした。米占領下の7年間、アメリカは原爆投下についてのいっさいの情報について報道を禁止しました。占領軍は、反米感情の噴出を抑えるためだといいましたが、多くの日本人は、世界に核戦争の恐ろしさを知らせないようにするためだと思っていました。ほぼ10年余り、日本政府も被爆者に医療援助や金銭上の支援をしませんでした。最後に、被爆者団体の運動で、そうせざるを得なくなりました。被爆者は自分の国の政府にも見捨てられたと感じながら、孤独と悲哀の中で暮していました。1952年に占領が終わり、私たちはようやく人前で自分たちが経験したことを話せるようになりました。広島と長崎について、たくさんの情報が手に入るようになりました。次第に人々は感情の麻痺から抜け出すようになり、回想や論文を書くようになりました。記憶にあるものを描写し、絵にするようになりました。人前で話をし、政治の活動にも加わるようになりました。そうすることで被爆者はみずからが心理的に立ち直っていっただけでなく、核兵器の危険について世界中に警告し始めたのです。
私は、1974年に広島で開かれたある原水爆禁止の会議に参加して、この使命に積極的に加わるようになりました。そこで私は、自分自身に起こった個人的な悲劇を超えて平和のために身をささげている勇気ある被爆者のみなさんと出会ったのです。それ以前も平和と軍縮は私にとって重要な問題でしたが、いまやそれが人生の中心的な問題になったことがはっきりと判りました。みずからの優先目標の意志表示は心を解放し力を与えてくれました。それは、多くの点で宗教上の改宗にも似ています。
1974年以前も、私は核兵器の問題について完全に沈黙していたわけではありません。1954年に広島の大学を卒業してから、奨学金を受けてアメリカに留学し、バージニア州のリンチバーグ大学で1年間社会学を学びました。アメリカに着いたとき、新聞記者の人たちから広島のことや1950年代の水爆実験についてどう感じるかなどインタビューを受けました。たまたま私が日本を離れアメリカに行く5カ月ほど前に、ビキニ環礁でのアメリカの核実験による降下物が日本の漁船員ひとりの命を奪い、他の乗組員を病気にし、大切な漁業水域を汚染したのです。日本中で怒りが沸騰しました。私が何を感じているかを尋ねられ、広島と長崎は、核実験の始まりではなく、終わりであるべきだったのです、と答えました。このインタビューが掲載されると、「日本へ帰れ!」「真珠湾を忘れるな!」などと書かれた手紙が届きました。殺すぞという脅迫状もありました。ひどく驚いて、一時は一体この先も話すべきなのだろうかとも思いました。ですが、この事件は、結局は私の決意を強めただけでした。
バージニアでの1年を経て、日本を出る前に知り合ったカナダ人と結婚しました。(夫は当時、大阪の近くでカナダ合同教会に属する英語の教師として働いていました)。1955年に彼が日本から戻り、ワシントンDCで結婚しました。(バージニアには異人種間の結婚を禁じた法律があり、カナダには近しい家族や親戚を除いてアジア人の移民を禁じた法律がありました)。私たちはトロントに移り、私自身はトロント大学に入って、そこで社会福祉学の修士号を取りました。
カナダでもマスコミから核戦争について見解を聞きたいとの話がありました。カナダ人の中ではそれほど敵意は感じませんでしたが、むしろ無関心や知識のなさが問題でした。たくさんのカナダ人、中でもマスコミ関係者は私の広島での体験を、格好の興味本位の話という以上に深く見ようとしませんでした。彼らは核兵器を自分たちの問題として捉えたり、普遍的な問題として捉えたりしようとはしませんでした。アメリカが原爆をつくるのにカナダのウランを使ったことや、マッケンジー・キング首相が「原爆がヨーロッパの白人でなく、日本人の上に落とされてよかった」と言ったことをすっかり忘れ、原爆を日本の問題だとかアメリカの問題だと見ることは簡単です。演説やインタビューを頼まれたときはいつも、カナダ人に伝えるためにできる限りのことをしてきました。けれど、平和運動で積極的役割を果たすようになったのは1974年の広島での会議に出てのことです。受身に待つのでなく、積極的に機会を探そうと決意しました。
トロントに戻り、さまざまな仕事についている信頼できる友人に集まってもらいました。牧師さん、科学者、法律家、社会学者、作家、広島出身の他の被爆者などです。みんなで一緒に、広島市や長崎市から贈ってもらった被爆写真パネルの展示など、世論を喚起するための計画をつくり、実行しました。それ以来、アメリカでも日本でもイギリスでも広く話をしてきました。
何度か、マサチューセッツのローエルで平和活動家を弁護するために証言するよう頼まれましたが、判事は許可しませんでした。広島のことはずっと以前に起こったことで、無関係だ、というのです。そのとき、私の心には、姉と甥、おじとおば、義姉、いとこ、学友たち、そして広島で被爆し、死んでいった何千何万という人々の姿が浮かび上がってきました。私ができるただひとつの道義的な反応は、判事に対して怒りを込めて、「ですが、人々はいまも命を奪われているのです」と叫ぶことでした。法廷から退去させられ、法廷侮辱罪で告発されることを覚悟しました。ところが次に起こったことは、元海兵隊大尉の被告の一人が私に腕をまわし、「ウィ・シャル・ノット・ビ・ムーブド(我々は、立ち退かないぞ)」と歌いだしたのです。他の被告も加わりました。判事は法廷を収拾できなくなり、休廷を宣言せざるを得ませんでした。
私は、広島の出来事から完全に立ち直ったのでしょうか? それとも、いまなお苛まれているのでしょうか? いまは充実し、精神的にも豊かな生活を送っています。それに感謝しています。自分では一人前のカナダ市民だと感じています。社会福祉活動もしています。二人の息子も立派に育て上げました。社会的に役立っていると思いますし、それは私にとっていつも大切なことでした。しかし、私は、ある程度まで、二重の生活を送ることは必要なことだと思います。私のような被爆者だけでなく、世界のだれもがです。私たちは、明日があるという仮定にたってこれからの計画を立てます。同時に、私たちや私たちにつながるほかの人が、今日のうちにも灰にされてしまいかねない危険も自覚しています。
広島の平和公園には慰霊碑があり、そこには「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書かれています。これが被爆者の誓いになりました。そうしてこそ愛する人たちの正視に堪えない死も無駄ではなかったことになるのです。そうあってこそはじめて、私たちが生き残ってきたことも意義を持つのです。
原文:
A Silent Flash of Light
Your Voice and Mine 2 (Holt, Rinehart and Winston of Canada, Limited 刊) に所収
1987 Holt, Rinehart and Winston of Canada Limited
For use in high schools
訳:たかくさき・ひろし、校閲:セツコ・サーロー
2018年1月29日、日本語訳を一部改訂